2012年5月5日土曜日

借上げ仮設への訪問

投稿:杉崎庸子

5/2(水)・3(木)の2日間、チーム王冠でボランティア活動をして来ました。今回は夫だけでなく、ボランティア仲間のNさん(女性)も一緒だったので、新鮮で楽しい道中でした。

チーム王冠の方針で、活動中の写真撮影は全面的に禁止になったとのことで、今回は写真はありません。

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朝8時頃に、サポートセンターに到着。
1日目は3人それぞれ別な場所で活動することになった。

私はチーム王冠の大津氏のサポートで、借上げ仮設(震災後建設の仮設住宅では足りずに、民間の賃貸アパートなどを仮設として使用している)で生活している人への物資のお届けをした。

「実は物資を届けるのが目的ではない」と大津さん。
「借上げ仮設の人は民間の借家にバラバラに散らばっているので孤立しがち。行政の情報なども入って来にくい。困っていることがないかの聞き取りと、こちらが持っている情報などを伝えるのが本当の目的」とのこと。


政府が仮設住宅(借上げを含む)の入居期間の1年延長を決めたことも、報道はされているが、行政からの通知は出ていないのだそうだ。借上げに入居している人がそのことを知っているかどうかの確認もした。

借上げ仮設の人の情報はどうやって得たのかを聞いてみた。
地元の情報誌に「借上げ仮設に入っている人に、抽選で20名に次の3つの中から希望の物資1つを差し上げます」という募集を出したのだそうだ。抽選としながらも、希望者があればできるだけ応えたいので、物資もできるだけ調達したとのこと。お届けに行った先では「当たると思わなかったので嬉しい!」との笑顔で迎えてもらった。

募集記事に挙げた物資は、①布団3点セット(圧縮されているのか、ミカン箱の1.5倍くらいの大きさ)、②食料、③毛布、で、この順番で希望が多かったという。もう春になるというのに、布団を希望するとは、どうやって冬を過ごしたのだろうか。


向かった先は仙台市内。先方の時間の都合がうまく合わず、1日で4軒しか回れなかった。

話をお聞きしてみると、みなさん事情はそれぞれなのだけれども、一言で言うと「やることがないのがつらい」と。
仕事がないことは大きく二つの問題を生み出す。一つは実際の生活が困ること、もう一つは時間が余って考えたくないことも考えてしまって気持ちが落ち込むこと。
また、借上げ仮設では、政府や自治体の決定事項や支援の情報を得にくく、生活の方針を決める材料が乏しくなりがちなのも問題。これは自宅避難している人にも共通だが。

しかしみんな共通しているのは、暗い顔して話すことはほとんどなく、どちらかというと淡々と笑顔であること。


母子家庭の30代の母は、自営業で従業員も一人いるが、仕事先にしていたところが震災によって無くなり、よって仕事量も収入も減った。夜寝る時は病院で処方された安定剤を飲んで寝ている、とのこと。働いている時は考えなくて済むけど、夜寝る時に、風の音を聞くと眠れない。近所のおじさんたちが親切にしてくれる、と笑顔。


保育園に通っている、同じく母子家庭の20代のママは、近所に職場と保育園があって助かっている。近所づきあいはないが不安はない。分からないことは職場の人に聞ける。市政だよりは配られておらず、情報はあまり入って来ない。支援金は、震災後に離婚した夫には入ってくるが、夫がそれを自分に分けるはずはないし、話し合いにもならないので、そこが困ること。

車はなく、移動手段は自転車のみ。
これについては大津君がビックリ仰天していて、その仰天ぶりが私にはビックリ!
このお宅を失礼した後の移動中に、大津君が「車がないと生活できない、こっちでは必需品なんですよ」と。
うーーん、石巻では分かるけど、仙台でもそうなのかと、まだまだ宮城の生活が肌では実感できてない。


50代の女性。80代の舅と姑、20代の娘との借上げのアパート暮らし。
家は1階が津波に流されたが躯体はびくともしていないので、手を入れれば住めるが、2,000万円との見積もり。おじいちゃん(舅)は修理して住みたいが、ローンを組む長男夫婦(現在は別居、将来は同居の予定)は2,000万円出すなら最初から立て直した方がいいというので、悩んでいる。

農機具も作業場も流されたが、自分たちが食べる分だけでも作りたい。農業は生育を見られてやりがいがある。
被災した自宅の近所のおじさんが、畑の手入れを手伝ってくれるというから畑仕事したいけど、こっちではおじいちゃんとおばあちゃんが足腰が弱くなったので目を離せず、畑仕事をしに行かれない。
今はおじいちゃんの年金と夫の遺族年金での生活、これからもっとおじいちゃんたちにお金がかかるだろうから、仕事の収入がなく不安。内職でもいいから何かやりたい!!やることがないとボーっとしてつまんないこと考えてしまって本当につらい。

被災した自宅は広いので、この狭いアパートに馴染めない。
前はおじいちゃんたちも農作業を手伝ってくれたが、今はやることがなく、食べたらボーっとするか寝るだけ。

夫は、震災の直前に急死した。葬儀が終わって葬儀屋さんと一息ついたところで大震災に見舞われた。生前の夫は兼業農家、真面目で働き者で、家族にも優しかった。

「急死する2~3日前に『俺は長生きしたいと思わない、でもお前は長生きしろ。想像できないことが起きるかもしれないけど、大丈夫だ。家族みんなで仲良くしてくれよ』って言われて、そんなこという人じゃなかったし、その時は何言ってるのって笑って聞き流しちゃったんだけど・・・。お父さんのおかげでみんなうまく行っていた。お父さんさえ居てくれれば大丈夫だったんです。お父さんのおかげで今もみんな本当に仲が良いの」と、微笑みながら涙を流していた。
亡くなる前にお父さんが残してくれた言葉が、このお母さんを支えてるんだなと思った。



福島県の南相馬市から避難してきた30代の女性。終始にこやかに応対してくれた。
小学1年生と1歳半の男の子との3人暮らし。夫は南相馬で働いており別居。

東電からの補償は8月で終わるし高速道路も有料になるので出費が増えるのが不安材料。上の子はお父さん大好きだけど会える回数が減りそう。

でも仙台に来て、子どもたちを外で気兼ねなく遊ばせられるようになって気が楽になった。前は、草をむしって食べそうになるとか、入って行きたがるのは側溝など汚染物質が多そうなところだから気が休まらなかった。
南相馬を離れると決めるまでは気持ちが揺れたが、こっちに来たら吹っ切れた。

私たちのそばで話を聞いていた小学1年生の男の子の口から「計画的避難区域」という言葉が出てきた時はびっくりして大津さんも私も固まった。


皆さん、こちらの質問に嫌な顔もせずに真面目に答えてくれて、外に出て見送ってくださる。
この1年間でボランティアで嫌な思いをしたことは稀で、地元の皆さんの気さくで誠実な応対に、気づくと自然とありがたい気持ちになっている。
物資であれ、人の訪問であれ、少しでも喜んでもらえるなら、また来たいと思う。

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